面倒なオタクのシャニマス振り返り

当ブログはKakuという一人の二次元アイドルが好きになり、ある程度向き合ってきたつもりのある人間の自己満足のためのものである。感想や考察など敵堂に書いていく予定であるので、気になった方は時折覗いていってほしい。

 

記念すべき1回目は、自己紹介がてら僕の人生とアイマスのふりかえりをさせてほしい。

先に言っておくと世の中のアイマス好き(特にシャニマス)の9割にとってはみるに耐えないものだろうし、読んでいて不快になることも考えられる。もし、そうなった方はすぐに読むのをやめてほしい。最初に述べたとおりこれは僕の僕による僕のための自己満足である。ノクチル実装からどうしてもシャニマスに心を入れられなくなった僕の気持ちを一度文字におこし整理し、シャニマスに対する向き合い方を今一度考え直す必要性を強く感じ、こうして文章にした。そんな自己満足をなぜネットという大海に投じたかというと、僕は、この記事を読み終えた皆さんに、心からお願いしたいことがあるからだ。その“お願い”とは「僕をどうかあの頃に戻してほしい。純粋にただただシャニマスを楽しんでいたあの頃の自分に。」である。この真意についてはこの長ったらしい、面倒なオタクを残面に出したこの文章を読んでいただければわかると思う。

 

最後に、これから述べることは全て僕個人の主観であり、アイマスに関わるいかなる方々に対しての誹謗中傷を含まないことをここに明記しておく。そしてこの記事は時系列順で書いたつもりであるが、ろくに調べもぜず僕の記憶を頼りに書いているため順番が前後しているかもしれないが、そこは多めに見てほしい。

 

アイマスとの出会い

今、シャニマスにもがき苦しんでいるわけを話すのには僕がアイマスと出会った時から話さなければならない。なぜならここが僕の原点であり、ここからアイマスひいては他のアイドルコンテンツに求める価値観も決定づけられているからである。

私がアイマスと出会ったのは、今から5年前である。まだその時はアイドルマスターなるものは何も知らなかったのだが、ただ楽しいリズムゲームとして、その時周囲で流行っていた『アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ』(以降デレステ)をやり始めたことが僕とアイマスとの出会いであった。誰もキャラなど知らなかったわけだが、譜面を叩き、イベントなどを軽くこなしているうちに、曲が好きになったり、愛着の湧いたキャラが生まれるようになった。それでも、アニメを見ようという気にはならなかった。というのも、当時の僕にはアイドルアニメはどうしても趣味ではないと感じていたからである。ただ女の子が出てきて歌って踊る、そんなアニメを見て何がおもしろいのか、ましてそれを見て楽しんでいるオタクはどんな神経をしているのか、と思っていたのである。そんな僕に転機が訪れたのが、今からちょうど四年前。デレステと出会ってから1年が経とうとしていた頃であった。

 

アニメ アイドルマスターとの出会い

その一つ目のターニングポイントが、アニメ『アイドルマスター』(以降アニマス)の視聴である。これはその時の友人の熱烈なおすすめがあり、友人との会話のネタにもなると思って見始めただけであったが、ここで私はアイマスに対する印象を大きく変えることとなった。

アニマスの感想については、4年もの期間を開けてまで語ったところで当時の新鮮な感想になるはずもないので省略させていただく。結果だけ述べると僕史上初めてアニメを見て涙をこぼしたのである。その時までいわゆる“泣けるアニメ”を数個は見たことがあっても、少しも泣かなかった僕がアニマスを見て泣いたのである。それも私が当時見下していたような女の子だけが出てくるようなアニメで、である。それほどまでアニマスには僕の心を動かす“ナニか“があった。その”ナニか“を分かりたいがために、僕はそこからアニメ『アイドルマスターシンデレラガールズ』(以降デレアニ)、『アイドルマスター 輝きの向こう側へ』(以降ムビマス)を見た。このデレアニでも感動したが、特にムビマスの感動は群を抜いていた。その頃は動画サイトでムビマスのCM広告を見るだけで1日1回は泣いていた記憶がある。このムビマスにはアニマス同様に僕を動かした”ナニか“があった。だがどうしてもわからない。女の子が頑張っているのが好きなのか。女の子同士の絡みが好きなのか。”ナニ“がここまで僕を動かしているのか、見当もつかなかった。そんな折、運よくアニメ『アイドルマスター side M』(以降side M)が始まった。リアタイでアイマスを楽しめることが嬉しかった僕は、男性アイドルという僕の見ていたアイマスとは全く異なる路線であったside Mを録画し、週一の楽しみとした。さらにそれと同時期に、もっとアイマスのことが知りたくなった僕はニコニコやネットなどで、アニマスで出てくるアイドルたち(以降765AS)の声優たちを調べるようになった。そんなアニメと声優を楽しんでいるうちに、今後に関わる大きな気づきをすることになった。

 

“ナニか”の気付きと悩み

まず、side Mを見ることで私は今までわからなかった“ナニか”の一端に触れることができた。それは、その“ナニか“とはアイドルが持つものであるということである。そこに男性や女性の垣根はなく、アイドルだから持つ輝きに当てられ、それに僕の心が動かされている。そして、その輝きとは、アイドル個人がアイドル以前に一人の人間である、ということから生まれることであることにも気付いた。アイドルはアイドル以前に普通の女の子であり普通の男の子である。だからこそ悩みもするし、泣きもするし笑いもする。そんな人間的な面を描いてくれたアイマス作品だから僕は心を動かされたのである。

 

そして、いろいろ765ASについて調べているうちに感じたものは、アイマスという歴史の深さである。私がアニマスを知ったのが4年前の2017年であった。その時点でアイマスは生まれてから10年以上の年月が経っていたのだから、その歴史の深さに驚きを禁じ得なかった。調べても調べても出てくるいろいろな裏話や小ネタ。アニマスの作品中の元ネタになったラジオだったり、楽曲だったり、ゲームだったりと、当時高校3年生であった僕には到底全てを網羅できるものではなかった。そんな中で感じてしまったのは、「どこまでいっても僕はにわかに過ぎない」ということである。あらかじめいっておくと、誰かに新参であることをばかにされたわけでもない。むしろその逆で昔からアイマスを好きな人は優しく僕にCDを貸してくれたり、いろいろなことをしてくれた。それでも、これは僕自身の生来持つ性のようなもので、このような歴史の深いものはどうしても大手を振って好きだと宣言はできなかった。僕よりずっと長く好きな人がいる以上、そんな人たちの前で好きだと言えなかったのである。そして、このにわかを抜け出そうといろいろと調べて見たが、どんなに調べても付け焼き刃感が否めない。アイマスの表層しか見ていない気がする。人間誰しもコンテンツに触れた当初は初心者なのだから、にわかなのは当然であるが、その時の僕はそれを理解していなかったのである。だからにわかを抜け出そうと無駄にあがいた。しかし原作がゲームセンターにある筐体である以上金銭的、時間的にも僕にはできないし、家庭用ゲームも当時の状況ではできない。知っていることはただのアニメ版やデレステなどのゲームに過ぎず、アイマス曲もアニメで流れるようなものしかわからない。これで本当にアイマスを好きだといっていいのだろうか。そんな思いがどうしても離れなかった。

 

シャニマスとの出会い

そんな時である。僕がシャニマスを知ったのは。多分2017年の秋だった気がするが、アイマスシリーズの完全新作である『アイドルマスター シャイニーカラーズ』(以降シャニマス)の発表があった。その時の喜ばしさといったら他にない。自分がしっかりアイマスを知ってからすぐにこのような新コンテンツの立ち上がりに立ち会える。そして完全新作であるから誰もが新規ユーザーであり、そこに差はなく、平等に楽しめる。僕がアイマスに勝手に感じていた負い目を全て追い払ってくれる理想が、そこにはあった。それから先は楽しかった。時折公開される情報を逐一チェックする日々。デレステなどのリズムゲームではなくプロデュースするような古き良きアイマスのゲームシステムを踏襲していること。ゲームはスマホでも楽しめること。登場アイドルは4ユニット16人であること。(実は発表段階のアイドル紹介では誰もパッとしないなあと思っていたことは秘密である。)そして、実装は当時から見て来年春、すなわち僕が大学1年になった後だということ。そのタイミングも相待って、僕のシャニマスへの期待は日に日に大きくなった。リリースがシャイニーの語呂合わせで4月12日と予想していたのは良い思い出である(実際は4月25日と検討はずれではあったが)。

 

そうして月日が流れ、ついに2018年4月25日、シャニマスがサービス開始となった。あの興奮や高まりは昨日のことのように思い出される。興奮とともに、知り合ったばかりの友人とシャニマスをプレイした。その頃はアイドルのシナリオなど気にせず、ゲーム性だけを楽しんでいた。いまとなっては信じられないが、シーズン3に昇格するだけでガッツポーズをし、シーズン4に行けばお祭り騒ぎをした。準決勝からはお互いに携帯画面を見せ合い、決勝に行った時なんか緊張で指が震え最初のアピールでBADを出すほどであった。ある程度優勝ができるようになると今度はTRUEを目指すようになった。まだまだ決勝での勝利も安定しなかった僕は、10万人オーディションに何度も負け、ファン数40万人で準決勝を迎えることがほとんどだったが、それでもめげずにやり続けた。そして、僕は櫻木真乃の最初のPSSRでTRUEを果たした。

 

そして、プロデュース面である程度ゲームを楽しんだ後、次に僕が楽しんだものはグレードフェス(以降グレフェス)であった。振り返って見てもこの時ほどアイドルゲームとしてではなく誰かと競うゲームとして頭を使い、シャニマスを楽しんだことはない。それほどまで充実していた。当時の環境といったら、センターは第2形態アーマードタイプの小宮果穂センターの全属性パーティが主流であった。実際に僕と同時期にシャニマスを始めた友人はこのパーティでグレード7に到達していたとおもう。その中で僕はその小宮果穂を持っていなかったため、その代わりとしてアルティメットマーメイド有栖川夏葉をセンターにおき、残りは全てSRの放課後クライマックスガールズの面々で固めた。バフの発動順番やメンタルとSPとステータスの育成の兼ね合いをシャニマス友人と研究し、アイドルたちをプロデュースする日々。センターの夏葉の夏葉の思い出アピールを5にするために何度も何度もプロデュースに挑んだ。そうして遂に完成した勝てる見込みの高いパーティで連日連夜グレフェスに潜った。たまっていたオーディションチケットをふんだんに使い、理想的な状況が来るまで粘った。そうしてついに、詳しい月は覚えていないがグレ7に到達した。今ほど環境が目まぐるしく変わるわけではなければユーザーも多くないため、そこまで難易度が高いわけではなかったが、それでもこの時は本当に嬉しかった。

だが逆に、僕はグレフェスという大きな目標を達成したため、燃え尽きた。

 

シャニマスのコミュとの出会い

恥ずかしながら、僕はこのグレ7に到達するまでシャニマスのイベコミュは追っていなかった。言い訳をするなら、僕はアニメキッズだったからである。「立ち絵が話すのはどうしてもつまらない。それならアニメを見る」という思いを強く持っていたのである。(現にデレステはただの音ゲーとして楽しんでいたのでコミュ等は全てスキップしていた)だが、グレフェスもひと段落つき、手持ち無沙汰になってしまった僕は、それを埋めるべく、たまったイベコミュを見た。そして自分を恥じた。しっかり考えられていたイベントコミュは僕がこれまでに出会ったどの携帯ゲームのクオリティを超えてきた。この時の感動のおかげで、シャニマスアニマスのような『いいシナリオを作ってくれる』と信じることができ、コミュを見る大切さに気づかされ、シャニマスのゲームをアイドルゲームとしてしっかり楽しめることがわかった。

 

シャニ1st

そしてシャニマスをしっかり楽しみ始めた頃、運命のシャニ1stライブが催された。私は運悪く実際の会場には行けなかったが、シャニマスを1年間やってきたものとして、全部見たいという思いが強く3公演全てライブビューイングで参加した。初めての大きなステージでありながら、堂々と歌って踊る姿はカッコよかったし、アイマス特有の朗読会ではシャニマスネタがふんだんに散りばめられ楽しかった。その中で、ぼくのこれまでのアイマスを通して考えてきた“ナニか”の答えを見つけることができた。

それは櫻木真乃役の関根瞳さんの最後の挨拶での発言、「サイッコーでした!」を聞いた時である。当たり前だが他のキャストの挨拶もどれも素晴らしく、恥ずかしながら涙をこぼしてはいたのだが、この関根さんの言葉は涙を超えて僕の心を動かした。

まず、「自分よりも年下のまだ高校三年生の彼女が舞台に立って元気に笑顔で最高と言っていること。間違いなくステージに立つに当たって不安もあっただろう。アイマスという長い歴史を誇る看板は決して軽くはなく、その責任も感じていただろう。それでも、僕たちの前に笑顔で立ち、一切不安な表情を見せずにパフォーマンスをし続け、最後に放った言葉が弾けるような笑顔での『サイッコーでした!!』であるなら、この子はなんて強いのだろうか。」という憧れが僕の中で生まれた。

さらにそれと同時に、自分のこれまでを振り返った。自分の身を省みても僕は選択などしてこなかった。小学生から親の指導のもと勉強に励み中高も部活と勉強を頑張り大学に入学した。もちろんこの人生に後悔など何ひとつなければ、この人生を歩ませてくれた両親にも感謝している。もう一度人生を初めから送り直しても喜んで同じような人生を歩むだろう。だからこそ、僕は関根さん(他のキャストの皆さんも)を心から尊敬したのである。アニメが世間一般に受け入れられるのに伴い、昔と比べてより一層成功する確率など低くなった声優業界に自分の足で踏み入れる選択をした彼女たちに憧れを抱かないことなどあろうか。勝手な想像だが、声優という仕事は誰かから強制されたわけではないだろう。自分の中で何かきっかけがあって、やりたいと心から思ったからこそ、業界に入ってきたと思われる。そんな勇気ある選択を、決して僕には選べない選択をした彼女たちを、僕は心からかっこいいと思ってしまった。

そしてこの二つが、僕の追い求めていたアイマスというアイドルが持つ“ナニか“であることに気づいた。すなわち、僕が引かれていたのは”アイドつという一人の人間“、より具体的にいうと”自らの選択で道を歩み、その途中に壁にぶつかっても決して折れることなく、人前に立つ時は堂々と笑顔でいる“そんなかっこよさに憧れていたのだ。だから僕はアイマスのアイドルたちが好きになったのだ。別に、これは声優とアイドルを同一視しているわけではない。

作中におけるアイドルたちは皆、何かの選択の果てにアイドルという道を選んでいる。人が勝手にオーディションに応募したり、自分から応募したり、街中でスカウトされたり、とアイドルになるきっかけは様々だ。だが最後には必ず彼女自身のアイドルになるという”選択“がある。そしてアイドルになった以上、「Catch the shiny tail」に代表されるように悩みを持つこともあるが、それでも彼女たちは向き合った。誰のせいにするでもなく自分の”選択“に責任を持ちアイドルと向き合っていた。そして彼女たちはファンの前に出たらそんな悩みは見せずに笑うのだろう。胸を張って立つのだろう。そんな彼女たちを僕は紛れもなく”かっこいい“と思うのだ。

 

ストレイライト

そんな風に様々な気づきをしたシャニ1stだったが、ここでは大きなお知らせがあった。みんな知っている通り、新ユニット『ストレイライト』の追加である。これは喜び9割、不安が1割であったことをここに白状しておく。1年間4ユニットでやってきたシャニマスに新たに加わる1ユニットはこれまでと同じようなクオリティでシナリオをかけるのだろうか。ガシャなどの更新で既存アイドルがないがしろにされないだろうか。もちろん新しい3名には期待もあったが、このような不安はつきまとった。そして実装されたストレイライトの3名のW.I.N.Gは正直なところ記憶がない。どんな気持ちで見たか、と言われると多分僕は愛依に感情移入していた気がする。けれどその時の感想の詳しいことは今となってはもう覚えていない。ストレイライトに関してはっきりと覚えているのは、ストレイライトの最初のイベコミュである。ストレイライトといえば、このイベコミュの印象が強い。これを見てから僕は『ストレイライト』が好きになった。シャニマスをやっていて個人よりも、ユニットが先に好きになったのはこれが初めてである。あさひ、冬優子、愛依の全く異なる方向性の三人が不思議と調和をもたらす、そんな雰囲気を感じ、僕はストレイライトを受け入れることができた。そして、2019年のシャニマス2年目はイベコミュを見ることがぼくのシャニマスの楽しみ方になった。この年は好きなイベコミュが多かった。アンティーカの『ストーリー・ストーリー』や、アルストロメリアの『薄桃色にこんがらかって』など有名なものもこの年のイベントコミュである。その中でも僕が好きなイベコミュは『階段の先の君へ』である。僕はこれがいまだにシャニマス史上最高のイベントコミュと思っている(『流れ星が消えるまでのジャーニー』までを読んだ現在)。アイドルだけではなく、あのファンである“おっちゃん”を描きつつ、応援してくれる街のみんなへの感謝を表した物語は、暖かく、幸せな物語であった。多分僕のコンテンツの楽しみ方は、アイマスでなくても“共感”なのだと思う。先に挙げた“選択”をした彼女たちへの憧れも、いわば僕と重ね合わせたために生まれたものであった。そして『この階段の先の君へ』ではファンとして描かれた商店街のおっちゃんの意見や言葉があまりに僕と似通っていたから僕にとって一番好きなコミュになった。

そうしてシャニマスを楽しんでいた時、大きな災いが襲った。

 

コロナ禍

2020年3月ごろから始まったコロナ禍である。ライブイベントは軒並み中止になりあったとしても配信がメインとなった。配信では、あのライブ独特の雰囲気を感じることができなくなり、ファンのみんなと言ったになったようなあの不思議な盛り上がりはなくなってしまった。そしてそのライブが行われない中で発表されたものが新ユニット『ノクチル』である。前回のようにライブを通しての発表でない分、聞いたときのテンションは低かったために、この発表を受けた僕は冷静だった。いや、冷静“すぎた“。新ユニットの発表に少しの驚きはあれど、ストレイライトほどの感情の動きはなく、このユニットに対する不安は大きかった。ストレイライトという良い例があったのにこれである。だが逆に、ストレイライトの件があったので、僕は信じていた。このユニットも、僕にとってシャニマスを彩る存在にきっとなってくれる、と。だから僕は希望を持ってノクチルのW.I.N.G.実装をまった。そして2020年の春過ぎに実装された。ノクチルの四人が一人ずつ順に追加され、実装当日とまではいかないまでも極力早くプロデュースをし、シナリオを読んだ。そしてここからである。僕の中でシャニマスが揺らぎ始めたのは。

 

noctchillとの出会い

これから述べることは運営に対しての文句ではないので許してほしい。作品を作ってくださる運営はいわば神的存在であり、それを楽しむただの人間である僕に、そのシナリオ等に文句を言う資格はない、とわかっている。わかってはいるのだが、僕は樋口がどうしても受け入れられなかった。他のノクチル3人はW.I.N.G.時点では問題がなかった。

だが樋口円香、この女の子だけがどうしてもがわからなかった。正直、SNSを初めに見て樋口のW.I.N.G.がいいという噂が僕の中で先行し、期待をしすぎた面もある。だが、それを踏まえてもわからなかった。先に述べたとおり、僕にとって『アイドルであっても一人の人間である』という面が描かれているから僕はアイマスが好きになった。そこからくる共感があってこその、僕にとってのアイマスである。創作物と現実を混ぜるな、と言われてもどうしようもない。この現実とアイマスの重ね合わせがあったからこそアイマス、特にシャニマスが好きになったのだから、この考えを捨てることは今までの『僕の好きなアイマス』の否定であるし、簡単にその考えを捨てることなどできない。

そうして『一人の人間』として樋口を捉えたとき、僕はどうしても樋口が受け入れられなかった。なぜ、プロデューサー自信がスカウトしたわけでもないのにこんな罵詈雑言を浴びなければならないのか。なぜプロデューサーはそれを笑って流しているのか。なぜこの女の子はアイドルになったのだろうか。疑問が尽きなかった。友人に、その原因は決勝で負けたからだと言われた。確かに、僕は樋口の初W.I.N.G.では決勝で負けてしまい優勝コミュは見ていなかった。それで印象が変わるなら儲けもんだと思い、わずかな期待を持って再び臨んだ。そして無事優勝した。だが、わからなかった。W.I.N.G.はシナリオ通して34週間時間が経過している。そうして考えた時、出会ってから34週という8ヶ月以上の間あんなふざけた態度されている中での、たった一回、最後の「プロデューサー」呼びだけでは僕の樋口への印象は変わらなかった。その時は他に樋口のカードがあったわけでもなかったので、その先のシナリオや他の樋口関係の話はまだわからなかった。その樋口の新しいシナリオが無い中で、僕にとって樋口への受け入れられないという思いは日に日に強くなった。こんな風に、運営のシナリオにおいていかれたのは初めてである。僕のような浅はかな人間にはこの樋口のキャラ付けでシャニマス運営が訴えているものがわからず、あまつさえ「オタク受けを狙ったキャラ付けだ」とさえ思ってしまった。そこから僕はシャニマスから少しずつ気持ちが離れていった。コロナ禍でライブがなかった、というのも原因の一つではあると思うが、それ以上にこの一度の置いてきぼりが原因で離れた。わかっている。樋口がダメでも他の三人がいるし僕がずっと好きだった他の5ユニットがある。だが、これまで例外なく全てのユニットが好きになった僕にとって、この受け入れられないというのが衝撃すぎて、割り切ることができなかった。僕が心から好きだったシャニマスに少し影が入った。心の狭いことも、シャニマスにかける思いがたった一人の印象で崩れる程度だったという意見があるだろうことも重々承知している。自分がただの面倒なオタクであることも理解している。

だがここで、僕はシャニマスから少し離れてしまったのである。

 

天塵

それでもたった一度、ろくに知らずに離れたことに対して、自分を責める思いはあった。お前の信じるシャニマスはそんなものではなかっただろ、そう囁くもう一人の自分がいた。そんな中、シャニマスをやっている友人がノクチルのイベコミュである『天塵』はいいぞ、と言っていた。僕は『天塵』はイベントでコミュだけ回収して見ていないままだった。樋口で時が止まったままの僕に、もう一人の自分が、現在更新されてるノクチル関係の最新作である『天塵』を読まずに、ノクチルを嫌いになる資格はあるのか、と問うてきた。僕が出した答えはNOである。僕をこれまで変えてきたのはイベコミュである。ストレイライトも、イベコミュ一発目のおかげで印象がガラッと変わり好きになった。そんな過去の経験からもイベコミュを見ないで離れることは言語両断である。そして僕は『天塵』を見た。

 

はっきりいうと、期待を悪い方向に裏切られてしまった。これもイベントエピソード作成スタッフは悪くない。僕の読解力がないだけで作成陣のいわんとすることがわかっていないだけだろう。だが、読解力のない僕には、どうしてもなぜ彼女たちがアイドルをやっているのかわからなかった。心からの疑問である。シャニマスのシナリオでは多かれ少なかれ悩みを抱えてアイドルになる覚悟を持っている様子が丁寧に描かれていたし、何度もいうが僕はそういう面が好きであった。悩みと向かい合いそれでも最後は無理にでも笑って人前に立つ、そんなところが好きだったのだ。そういう面では『天塵』で樋口や福丸は印象がいい方向に変わった。だがどうしても、どうしても、天塵エピソード中のあの生放送でのノクチルの対応が許せなかった。「遊びでその場に立っているなら辞めてしまえ」と素直に思った。ひどい話だ。笑ってしまう。一体僕は何様なのだろうか。僕より年下の高校生であるノクチルに対して、自分の理想を押し付け、勝手に怒っているのだから。

だが『天塵』を読んで生まれたものは、それだけでは済まなかった。生放送でのことが原因で業界を干されても笑って飄々とするノクチルメンバー。それに対して特に叱ることのないプロデューサー。全てに置いてかれた。そしてイベント最後にはなぜか川に飛び込んで話が終わった。意味がわからなかった。ここで気づいたのは僕が受入れられなかったのはノクチルだけではない。そこに関わるプロデューサーもであった。今まで、僕は自信をプロデューサーに重ね、シャニマスを楽しんでいた。会話の選択肢には自分が思っているものと似たものも多くあったりシナリオ中のプロデューサーの発言も同意することも多くあり、そこも楽しむ要素だった。だが、ことノクチルに関しては、全くと言っていいほどなかった。なぜここでこの言葉を投げかけるのだ。僕が言いたいことはそれだけじゃない、やりたいことはそうじゃないのだ。勝手にプロデューサーに自分を重ね勝手に裏切られた気持ちになるなんてみっともないオタクだな、と笑ってもらって構わない。だが僕はこの時、笑えなかった。

 

この天塵のショックは大きく、より一層シャニマス離れが加速した。

 

ノクチルファン感謝祭

だが、ここでも僕の中でシャニマスを嫌いになりたくないという思いは強く残った。嫌いになるのは簡単だからこそ好きになる努力をし続けたいと思った。普通の人間ならそこまでになったらもうシャニマスから離れるだろう。たかだか1つのコンテンツにそこまで悩むのは気持ち悪いと思われても仕方ない。だけれど、それでも悲しいじゃないか。高校3年生の時から心待ちにしていたシャニマス。大学2年間を心から楽しみ友人たちと色々な話をしたシャニマスグレフェスでお互いにしのぎを削っていたシャニマスシャニマスについて思い返すと出てくるのは楽しい思い出ばかりだ。そんな楽しいことをくれたシャニマスをおいそれと嫌いになんてなりたくないじゃないか。それを、このわずか数ヶ月で嫌いになんてなりたくなかった。シナリオを信じていたかった、離れたくなかった。まだあの頃の自分に戻れる、そんな日が来ると信じていた。

そんな時、ノクチルのファン感謝祭実装の知らせが届いた。はっきり言おう。これに喜んだ記憶はない。このユニットにファンなんているのか?いったいこのユニットはどこの誰に感謝するんだ?僕は時系列的に天塵後のノクチルのユニット全体を描いたものがファン感謝祭だと考えているのだが、その間にファンが生まれるような何かがあったのだろうと思われる。だがそれがシナリオとして描かれていない以上僕にはこのファン感謝祭はもはやミリ前から意味のわからないものだった。だがそれでも、一縷の望みを持ってファン感謝祭のシナリオを見た。

ここで僕の中で何かが切れた。そこにいたのは何も変わらないノクチルだった。多分シャニマスユーザーのほとんどはそれが好きなのだろうが、僕はついていけなかった。天塵後に、ファンを増やす何かがあってファン感謝祭があると思っていたが、多分そんなこともないのだろう。時系列がしっかり考えられているとするなら、彼女たちは彼女らしさで天塵後にファンを作り、ファン感謝祭を迎えたのだろう。それはそれで文句はない。運営が考えてくださったシナリオに文句の一つも沸くはずがない。であればそこに僕の入る余地はない。僕が感情移入できる瞬間はない。そして僕がノクチルを受け入れることもないのだろう、そう悟った。

 

そこからはもうシャニマスはほとんど触らなくなった。ファン感謝祭の続編シナリオであるG.R.A.D.も何かと理由をつけて半分くらいしかやっていないし、他のユニットのイベコミュもノクチルのせいにして見なくなった。それどころかイベントも一切やらなくなったため、解放すらしていなかった。自分なりにノクチルを知ろうとしていたはずだったのに、『海へ出るつもりじゃなかったし』など、興味もわかなかった。また期待を持って裏切られるのが怖かったのである。そして、このシャニマスから少し離れていたときに出会ったのが別のアイドルコンテンツである『Tokyo 7th Sisters』(以降ナナシス)であった。これについては別のところで文章にしたいが、このコンテンツでは僕の求めていた“人間を描く”がコンセプトとなっていて衝撃を受けた。今までアイマスだけが僕の理想であると思っていた僕は、アイマス以外のアイドルの世界を知った。ノクチルに心を侵され、掴んだのは別のコンテンツのアイドルの手だったのだから、僕の尻軽さには自分でも嫌になる。だがこのナナシスを知ったことでシャニマスでなくても携帯ゲームというやりやすい中で最高のシナリオを提供していただけると思えてしまったのだ。そして、ファン感謝祭後の2020年の9月か10月からは個人的な事情もあり、ナナシスのエピソードを見ることになった。

 

SHHis実装

ナナシスのエピソードを見初めて半年が経ち、十分ナナシスに影響を受けていた2021年春、シャニマスにおける現状最後の転換が訪れた。予想はついていると思うが、『シーズ』の実装である。もはや毎年恒例となった新ユニットの発表にすでにシャニマスから離れていた僕はわずかばかりの驚きもなく、ただただ情報がSNSに流れているのを見ていた。正直あまりやるつもりはなかったが、にちか実後のSNSのタイムラインを見ていて愕然とした。タイムラインにあふれていた言葉は『社長』ばかりであったからである。ふざけているのかと思った。にちかのW.I.N.G.でなぜ社長の話で盛り上がるのかと思った。僕たちの見てきたシャニマスはそんなところが本質ではないだろ、にちかの話をしろと思った。そして同時に、これが多くのイベントを経て飽和したシャニマスユーザーの大半の楽しみ方なのかな、という考えがよぎった。なんの脈絡のない話題性だけで判断し、気分を高める、そんなものかと思ってしまった。皮肉なものである。かつてアイマスの歴史を恐れ、アイマスを好きだと大きな声で言えなかった自分が、シャニマスでは古参ぶり、そのように好きだと楽しんでいる人間を否定してしまっているのだから。しかもシャニマスから離れていた僕がいまシャニマスを楽しんでいる人たちに向かって言っているのだからどうしようもない人間にもほどがある。

そして、そのタイムラインを見たときに生まれた意味のわからないオタク特有のシャニマスに対するプライドから、僕はにちかのW.I.N.G.プロデュースに臨んだ。

 

このW.I.N.G.でも、ノクチルから続いているプロデューサーの言動への疑問が生まれた。まるでにちかをアイドルとして信じていない描写が見られ、驚きを隠せなかった。確かに、自分から強引に入ってきた女の子であるため実力はないかもしれない。それでも「アイドルはここから始めてアイドルになるのだろうか」はないだろう、と思った。にちかなりに理想のアイドルを追いかけている、そのやり方を否定したとしてもそのアイドルとしての才能、輝きを否定することはないだろう。なぜなら人は皆アイドルになれるのだ。僕が、ただ頑張り笑っている姿に感銘を受け、好きになったことと同じように、ただ頑張るという姿勢だけでも頑張れない僕にとっては立派であり、十分な輝きである。だがそれをシャニマスのプロデューサーは否定した。ノクチルから続くプロデューサーへの不信感かここで最高潮を迎えた。もちろんW.I.N.G.を通してプロデューサーの考えも変わっていったが、どうしてもこの時の印象が強くうまくシナリオに入ることができなかった。そして挙げ句の果てに、優勝コミュの最後を飾るのは社長の過去の匂わせであった。ここがとどめである。シャニマスの運営は悪くない。7ユニット目であれば、新しいユニットと言うネームバリューも最初ほどではないだろうから、インパクトとして社長を持ち出すのはマーケティングとしても重要だろう。シャニマスだって慈善団体がボランティアで作っているのではない。働いている社員たちの給料分まかなうことや会社を大きくしたりするためにもお金を稼がなければならない以上そういった話題生を持ち出すことの必要性も頭ではわかっているつもりだ。だが、この終わりだけは、自分勝手な都合を言うなら、やって欲しくなかった。してはいけないな、とまで思った。社長の話をするなら、せめてイベコミュでやってくれ。にちかが初めてメインで登場するW.I.N.G.コミュで、しかも最後に、社長の話を持ってこられたら僕はにちかを見ていたのか社長を見ていたのかわからなくなる。僕だって社長の話は気になる。だが、『きよしこの夜』のイベコミュで触れたのである以上一貫してイベコミュでやってほしかった。そんな勝手な失望を抱えまま再びシャニマスから離れた。

 

そして今現在、緋田美琴のW.I.N.G.も、『星が消えるまでのジャーニー』以降のイベコミュも、追加されているG.R.A.D.もやらずにいる。あの頃のように、シャニマスを楽しみたい、と心の奥では思いながらも、楽しむ努力を怠っている。もしここまで読んでいただいた方は、僕にもう一度シャニマスをやるきっかけを与えてほしい。一番最初に書いた通り、どうかめんどくさいオタクである僕を救ってほしいのだ。心からそう願っている。